旅行・地域

2008年8月30日 (土)

出会い-カスピ海

カスピ海ロシア語: Каспийское море英語:Caspian Sea)は中央アジアにある陸地に囲まれた塩湖である。かつては裏海(りかい)とも呼ばれ、中国語では現在もそう呼ばれる。

この湖に接している国は、ロシア連邦ダゲスタン共和国カルムィク共和国チェチェン共和国アストラハン州 )、アゼルバイジャン共和国イランマーザンダラーン州など)、トルクメニスタンカザフスタン共和国である。湖の北から東にかけて中央アジアの大草原が広がる。ヴォルガ川ウラル川クラ川テレク川などが流れ込んでいる。流れ出す川は存在しない。アゾフ海マヌィチ運河によってつながっている。

古代には「ハザール海」と言われていた。

面積は374,000 km²ある。海と湖の両方の特徴をあわせ持っているため、海とするならば世界で最も小さな海になり、湖とするならば世界で最も大きな湖となる。なお日本の面積は377,835km²なのでほぼ同じ面積に値する。

多くのチョウザメが生息し、その卵はキャビアとして加工されている。乱獲によりその個体数は減っており、専門家は数が回復するまで捕獲を完全に禁止することを提唱している。

カスピ海の水質や周辺諸国の境界線をどのように引くかということが問題になっている。国際法上、この水域をとするかとするかで、沿岸各国の利益が変わる。

カスピ海で最も早く油田生産が始まったアゼルバイジャンがバクーを中心として一大石油生産地となっており、ロシア、カザフスタン、トルクメニスタン、イランでも探鉱が進められている。カザフスタンで開発中のカシャガン油田には日本含め大手石油企業が参加している。西欧へ輸出するために、地中海までBTC(バクー・トビリシ・ジェイハン)パイプラインが2006年に建設された。カスピ海は黒海や地中海と同様にテーチス海の名残である。大陸移動により550万年前に陸地に閉じ込められた。海水の塩分濃度が世界の海の3分の1なのは一度干上がり、塩分が岩塩として沈殿したためと考えられる。北部ではヴォルガ川などの流入で塩分が薄く、南部ではイランからの流入河川が少ないため塩分が濃いとされる。

カスピ海の水位は何世紀にも亘り上下の変動を繰り返してきた。ロシアの歴史家たちは中世における水位の上昇がハザール王国のカスピ海沿岸の町に洪水を引き起こしたと述べている。

カスピ海の海面は、19世紀にはおおむね海抜 -25~-26mで上下していたが、20世紀に入ると低下しはじめ1930年代には約2m弱と急激に低下した。その後、1977年まで海面の低下が続き、その後は上昇している。なお、この間、1980年にはカスピ海の海面低下を防ぐためカラポガスゴル湾を結ぶ海峡が堰き止められ、塩害など別の災害を引き起こした。

過去2000年の間でも、海抜-22mから-34mの間で大きく変動したと考えられている。カスピ海周辺国家間で10年に及ぶ領海確定協議が続いている。カスピ海を海ととらえるか湖ととらえるかで、主に3点が問題となる。つまり鉱物資源(石油・ 天然ガス)、漁業そして国際水域としてのアクセス。とくに黒海やバルト海へ抜けるヴォルガ川とのリンクは内陸国であるアゼルバイジャン、トルクメニスタ ン、カザフスタンにとって重要である。カスピ海が海であれば外国船の通過を許す国際条約が有効となり、湖であればその義務がなくなる。これには環境問題も 関係する。なお、カスピ海では旧ソ連時代の艦艇を引き継いだロシアの軍事プレゼンスが最も高い。

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2007年11月14日 (水)

出合い-アルタのロック・アート

アルタのロック・アートはノルウェー最北部、フィンマルク県のアルタにある先史時代の岩絵群をいう。1985年にユネスコの世界遺産に登録された。

概要

アルタのロック・アートは、紀元前4200年から500年頃までに狩猟・漁撈民によって描かれた岩面刻画および岩陰彫刻群で、花崗岩の岩盤の上に刻まれたものである。これまでにおよそ20~40cm大のものが5000点以上発見された。[1] 北欧およびロシア北部に見られる極北美術の出土例の1つとなっている。

海岸線の隆起

制作年代の古いものほど高い位置に、新しいものほど低い位置に描かれている。[2] モチーフとなっているのは、トナカイをはじめ、ヘラジカ、クマなど北極圏に生息する動物たちとそれを追って狩りをする人々、舟を出して魚を獲る人々などである。

登録エリアのうち、最も大きなヒェメルフト/イープマルオクタ地区(50.09ha)にある岩絵はアルタ博物館で一般公開されている。冬季は降雪により見ることができない。

登録経緯

1972年秋以来、アルタ市内の5つの地区で岩絵が発見され、1984年12月28日にこれら5つの登録エリアを文化遺産とする申請が行なわれた。正式登録はその翌年の1985年である。

1991年、アルタの岩絵群を常設展示の中心とするアルタ博物館が設立される。2004年、岩絵群損傷の報告を受け、世界遺産委員会はノルウェー当局に被害の調査および保護のための措置を求めた。[3] 同年の報告によると、入場者数は68,320人でゆるやかに増加している。[4]

2006年7月に英語での登録名称がそれまでの「アルタの岩絵群」(Rock Drawings of Alta)から「アルタのロック・アート」(Rock Art of Alta)に変更された。[5]

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。

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出合い-ドーセット

ドーセット (Dorset) は、イングランド南西部の地域で、ドーセット州 (the county of Dorset、Dorset county) とも呼ばれる。かつてはドーセットシャー (Dorsetshire) とも呼ばれていた。州都はドーチェスター (Dorchester) である。西にデヴォン州、北西にサマセット州、北東にウィルトシャー州、東にハンプシャー州と接している。州のモットーはWho's Afear'dである。

人口統計
2001年の統計によると、ドーセット州の人口は390,980人である。かつては州の一部であったボーンマスに163,444人、プールに138,288人がいる。以下の統計は、この2つの地区を除いたものである。

州の人口の91.3%はイングランド内で生まれており、さらに95.2%は、イギリス内で産まれている。98.8%は白人であり、少数派民族の人口は極めて少ない。

78%はキリスト教徒であり、13.7%は特定の宗教を信仰していない。

ドーセット州はイースト・サセックス州の次に人口に占める高齢者の割合が多い州である。人口の25.9%が65歳以上であり、16歳から74歳までの人口の13.9%が引退している。イギリスの34州の中で最も低い出産率をもっており、わずか1000人当たり9.6である。イースト・サセックス州、デヴォン州についで、最も高い死亡率を示している。1996年には、その差が1056人に達し、人口が1000人当たり2.7人減少していた。しかし、1997年には7200人の移民がドーセット州とプール、およびボーンマスに移住している。これにより、1997年の人口増加率はケンブリッジシャ州についで高い、17.3%を示した。


主要な産業
ドーセットの伝統的な産業は、農業であった。しかし、農業の機械化に伴い、農業従事者は数を減らしている。また近年、競争が激化するにつれ、州の経済で農業の占める割合は低下を続けている。2002年に190,271haが農業に使われているが、1989年には198,558haが使われていた。同じ期間に主要な産業の1つである食用牛の数は240,413頭から178,328頭に減少しており、乳牛の数も102,589頭から73,476頭に減少している。羊と豚の数も同じように減少している。

19世紀の始めから、観光がドーセットのもう1つの産業の柱となっている。2002年には420万人のイギリス人と26万人の外国人旅行客が州を訪れており、7億8600万ポンドを支出している。外国人旅行客は、1998年に41万人を記録しているが、1999年には31万人に減少し、2001年には32万人と少し回復したものの、翌年には大幅に減少している。これは地球温暖化やイラク戦争などの影響が指摘されている。

ドーセットは特に目立った工業を持たず、平均の18.8%の雇用率に対し、イギリス全体で34州中30番目の14.6%に止まっている。

州の1人あたりのGDPは、平均の84%である。


市町村
ドーセットには、数多くの小さな村があるが、大きな町はわずかしかなく、市と呼ばれているものはない。最も大きな町は、南西の海岸沿いのリゾート町のボーンマスと伝統的な港町であるプール、それにクライストチャーチとその周りの村をあわせた集合都市である。この集合都市は、市と呼ぶのに相応しい規模を持っているが、法律的には別々の町である。19世紀の半ばごろには、ここにはプール港を中心とした小規模な町しかなかったが。ビクトリア時代に海水浴が広まり、ボーンマスがリゾート地として発展しき、州の南西部は高級リゾート地として発展していくことになる。例えば19世紀ごろはプールのサンドバンクス地区は農民にさえ、利用する価値のない土地として見捨てられていたが、現在では世界で3番目に地価の高い地区である。1974年に州境の変更があり、隣のハンプシャ州から、ボーンマスとクライストチャーチが州に組み込まれた。

州には他にも2つの大規模な集落があり、1つは州都のドーチェスターであり、もう1つは観光地として有名で、ジョージ3世も頻繁に訪れていたウェイマスである。

ブランドフォード・フォーラム、シャーボーン、ギリンガム、シャフツベリー、スターミンスター・ニュートンは、伝統的な市が開かれていた場所であり、ブラックモア・ヴェールやハーディズ・ヴェールの村や農家の交流地である。ブランドフォードに、ホール・アンド・ウッドハウス社所有のバッジャー醸造所がある。同州のブリッドポート、ライム・レジス、それにウェアハムもかつて市が開かれていた場所が町になっている。

ドーチェスターの西の端に、ポンドベリーというニュータウンが作られた。チャールズ皇太子が設計を手伝い、命名している。商業地区と居住区が一体となるように設計されており、郊外のベッドタウン化や車社会に一石を投じるものとなっている。

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2007年11月 1日 (木)

出会い-エールフランス

エールフランス‐KLM(Air France-KLM、ユーロネクスト・パリ:AF、NYSE:AKH)は、フランスのエールフランスと、オランダのKLMオランダ航空で共同経営する航空会社である。2004年5月5日に両会社間で特殊会社の方式で経営統合がおこなわれ、共同経営を開始した。代表(CEO)は、エールフランスのCEOでもあるジャン=シリル・スピネッタ(Jean-Cyril Spinetta)が務めている。

スカイチームに加盟し、シャルル・ド・ゴール空港(フランス・パリ)と、スキポール空港(オランダ・アムステルダム)をハブ空港とする。

共同経営することによって、会社間で協力し合え売り上げも伸びることから、共同経営を開始し、現在は総営業収益でヨーロッパ一となっている。

2005年6月6日より、KLMとマイレージプログラムを統合し「Flying Blue」として新たに発足した。

2007年7月、イベリア航空を買収する計画に参入した。(日本経済新聞) イベリア航空はワンワールドに加盟しているが、買収された場合はスカイチームに加盟する可能性が高い。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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2007年10月29日 (月)

出会い-KLMオランダ航空

KLMオランダ航空(ケイエルエムおらんだこうくう、KLM Royal Dutch Airlines、オランダ語ではKoninklijke Luchtvaart Maatschappij)は、オランダの航空会社。オランダのいわゆる「フラッグ·キャリア」である。

1919年10月6日創設。創設時と同じ名称で現存する、世界で一番古い航空会社で、アムステルダムのスキポール国際空港を拠点としヨーロッパの諸都市への航空網を持つ。二番目に古い航空会社はコロンビアのアビアンカ航空(1919年12月設立)、三番目に古い航空会社はオーストラリアのカンタス航空(1920年設立)となっている。

2004年5月にエールフランスと持株会社方式での経営統合した。持株会社の名称はエールフランス‐KLM。これにより、かねて関係の深かったノースウエスト航空とコンチネンタル航空はKLMと共にスカイチームに加盟した。

以前は中華人民共和国の圧力により、KLMの名義では中華民国(台湾)に乗り入れできなかったため、「KLM asia」(シンボルの王冠マークが消されていた)と別会社を装って中華民国線を運航している。

現在はフランスのエールフランスと持株会社(エールフランス‐KLM)方式で経営統合を行っている。 2005年6月6日より、エールフランスとマイレージプログラムを統合しFlying Blueとして新たに発足した。

  • 日本乗り入れ空港
    • 成田国際空港(第1ターミナル·北ウイング)
    • 関西国際空港(北ウイング)

営業事務所は東京と大阪にある。

以前は唯一ヨーロッパ路線で新千歳空港(名古屋空港発着の便の経由地だった)に乗り入れていたが、同時多発テロ以降乗客が減り撤退し、札幌駅前にあった営業所も閉鎖した。

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2007年10月25日 (木)

出会い-飾り窓

飾り窓とはオランダ、アムステルダムにある風俗街の俗称。売春婦が窓越しに客と交渉することから、売春婦を商品に見立てて飾り窓と呼ばれるようになった。オランダでは売春が合法的に行われている。一時期、廃止論が出たが「売春を行う権利がある」との理由から存続が決まった。売春婦が自主的に売春行為を行っているという建前があるため、売春婦自身が客と交渉を行うシステムになっており、ポン引きなどの行為は厳しく規制されている。窓越しの交渉の際、売春婦が客を断る光景もしばしば見受けられる。シャワー、風呂等は一切使わず、前戯も通常は行われないので、短時間で安価である。客には必ずコンドームが装着される。

ドイツでもフランクフルトのフリードリッヒ通り、ミュンへナー通り、ハンブルクのレーパーバーンなどにいくと同様の店がある。

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2007年9月18日 (火)

出会い:オランダとアジア植民地

オランダは早くから世界進出し、アジアともかかわりが深い。オランダによるジャワ島を中心とするオランダ領東インド支配においては、1825-30年におきた民衆抵抗を過酷に弾圧したのち、悪名高い「強制栽培制度」を1830年に実施した。これは、ジャワ農民に対し、土地の一定割合で稲作など食用の栽培を禁止し、コーヒーやサトウキビといったヨーロッパ輸出用の高級作物の栽培を強制する制度で、オランダ本国が当時おかれた経済的苦境を打破するためのものであった。この制度により、ジャワから強制栽培品を安く買い上げ転売したオランダは経済が好転、鉄道建設をはじめ、産業革命と近代化のための資本蓄積に成功した。厳罰によって実施されたこの制度で、ジャワ農民は稲や麦という自給食料を失い、1843-48年には飢饉に苦しみ大量の餓死者を出したと言われている。強制栽培制度は中断を伴い形を変えて20世紀まで続けられ終戦まで続いた。 インドネシア側はこうした被支配の歴史に対し、これまでオランダ女王のインドネシア訪問、2000年のインドネシア大統領の訪蘭などで謝罪を要求した。2005年のインドネシア独立記念日にインドネシアを訪問したオランダ外相は1945年以降の植民地支配についてのみ謝罪した。

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